**国内最大の災害となった東日本大震災で、九死に一生の体験を日誌として毎日綴ったものです。**
「津波にのまれ九死に一生」
助かった・・・・そう実感できたのが病院からの徒歩で帰宅途中高台からの騒然なわが街を一望した瞬間だった・・・・。
3月11日午後2時43分だったと思う・・・その揺れは起こった。
いつもの通り工房内で仕事中であった。いつもと違う揺れに右往左往するうちに、工房内は足の踏み場もなくなっていた。
注文いただいた主翼や胴体の造る途中の物が壊れていく様子を見ながら耐えた・・・
「工房がつぶれる・・・」と初めて思った・・・・。
約100秒間、横揺れの中でも和室を経て居間まで行き、壊れそうなテレビを手で押さえていた・・・・・今回はずいぶん長い・・・揺れが強くなり初めて「家がつぶれる・・・」と思い窓を開け外へ飛び出した。
近所の方々も外へ出ていた・・・
いろんなメディアで、「もう来る 来る・・・」と言われていた宮城県沖地震の再来と思える揺れであった。
揺れが収まってから、屋内の異常を確認するのに一回り観てまわりかびんが落ちたのやら食器棚から落ちたのを確認だけして余震を心配し、しばらく外で待機していた。
そこへ、留守中だったお向かいの奥さんが帰ってきた。
奥さんは自分の家の内部に悲鳴をあげながら散乱しているであろう内部を見て、すぐに外へ出てきた。
動揺した様子で近郊に住む孫の安否をしきりに気にしている様子であった。
タクシーでその娘のマンションへ向かうという・・・
こんな状態でタクシーなど来るわけがない。日頃良し身にしていただいているご近所さんの奥さんが少々パニクった様子で向かう方法をさがしていた・・・。
思えばこれが私の九死に一生体験の始まりだった・・・。
自分の家屋は無事だし、内部の散らかり様はあとでも片づけられると判断し、「乗せて行ってほしい・・・」と言わんばかりの目の訴えにホダされた。
助手席へ奥さんを乗せ、走り出したその場所までは20分もあれば行ける距離であった。
ラジオに聴き耳をたてると地震の情報を伝えている「震度6強」のアナウンスや「津波の恐れ・・・」を放送している・・・
私的にはいつものことである・・・2~3日前にも強い地震がありチョット慢性化していた・・あまくみていた・・・・放送では津波予想の高さが6mという経験のない今までとは違ったことにきがついたのは5分も走ったころのアナウンスであった。
いままではせいぜい1~2mが最大だったように記憶している。
もうもどれなかった・・・空いた道をスイスイ進み、予想通り20分近くで多賀城駅手前まで行ったところで高台方面への渋滞が見えた。
自分はそれへはまりたくないので砂押川多賀城駅前の橋の上でUターンを決め帰ると決断し奥さんを下した。
徒歩でその場所までは10分で行けるということだったのでこれで役目は果たし、自宅へ帰る道を走り出した。
が、海沿いから避難する車の渋滞は、細い抜け道までも詰まった状態であり、自分もすぐに挟まってしまえばアウトと判断。
その場所から真直ぐ大きい道を帰ろうと決断し、あえて海方向へ800m走り、産業道路を左折、ソニーの前を通り七ヶ浜へ向かったのだが、砂押川念仏橋の手前で通行止めをくらい、誘導通りに川沿いの道へ促され渋滞へはまってしまった。
今思えばこの時点で津波到達5分前だった・・・・。
200mノロノロ走った交差点をあえてまた海へ向かい、別の大きい道をと走った。
産業道路の万代書店前まで来て右折して多賀城駅方面へ行けば高台へ上がれると判断したのである。
携帯のワンセグをハンドル前の車用充電ホルダーへセットしながら、どこかの局の津波の映像が流れているのを見ながら走った//あせっていた。
なぜなら、最初の津波予想高さのアナウンスが6m、ラジオの情報が一変したのは奥さんを下す5分前のアナウンスであった。
予想津波高さが10mと変わったのである。
ラジオでは、「車から出て高いところへ上がってください」のアナウンスをしきりに繰り返していた。ワンセグの映像はヘリ上空からの津波の映像を映し出しており、ふと前をみるとそれが現実になっていた・・・・・
ミスタードーナッツの交差点、海側からゴミと車と瓦礫、ガスボンベ、そして人・・・
一気に私の車へ押しかかった。
車から出て走り出した人たちがずいぶん見えたが、一瞬にしてゴミの波に足をすくわれる人、孫を抱いて私の助手席側のサイドミラーにしがみつき必死にこらえている初老の男性、すべてのゴミの津波にのまれていく様子を目にした・・・・
出たら自分ものまれる・・・そう思った。
窓を締め切った車はほぼ垂直に立ったまま押し流されすぐに水に浮いた状態となり、車や物置・瓦礫とぶつからりあいながら流れた。
津波の先頭はこういったゴミの波であった。
何秒もしないうちに波に対して横になり廻り始めた車の車内から茶色の水中へ180度回転しながら流れた上下左右ゴミや水の中この時点で「もう駄目だ」と思った・・・・
こんな光景は海外のニュースで観た南の島の津波の映像だけしか見たことがなく、テレビ越しの映像でさえ絶句したのを覚えている。
そんな光景が現実になっていた。
この時点で窓を開けていたら一気に水が入って沈んだのだろう。
車内はグライダー曳航用のウインチ(1個30kg)を2個、それ用のバッテリー2個
送信機や工具箱、重量的には4人乗った状態の重量だったであろう。
くるまが重なって流されていた状態がガツンと止まった姿勢が運転席側が白く、上を向いたまま流れているのがわかった。
「出るしかない」・・そう判断し運転席側のドアーを押し上げた。すぐにステップへ立ち上がり飛び出すタイミングをはかっていた。
下流へ大型の保冷車が流れをせき止めているのが見え、それに向かって進んでいく・・・
下流側へ立っていったため挟まれると思えた。
大型車特有のアングルがついたバックミラーへすぐ手が届く状態になった。
ワイパーの軸へ無理やり足を引っ掛け、がむしゃらにはい上がっていた・・・・
屋根へ上がり、保冷庫のヘリを持ちながら当たりを見渡せる状態で待つことができた。
この車の運転手も、まだ運転席へ入ったままであった。
少しずつ水位を上げながら流れが緩やかになっていき上から見ても運転席シートの座席まで静が入っているのがわかった。
運転席にいた人へ声をかけた。「上がったほうが良いっすよ」
その声に即されたか、手荷物を屋根へ置き窓からはい上がってきた手をひっぱりあげ、2人で捕まった。
よく見ると、同じようなトラックが2台連なって助手席側が歩道の立木前で止まっている状況だった。
「のまれずに済んだ」我に返り廻りは一面海水、斜め向かいの「すき屋」の屋根からやく1mちょっとの下の部分まで海水があった。
*よじ登った冷凍車・前輪はこの立木と後輪を中央分離帯のブロックで堰き止めていた、最高水位はバックミラーが見えなかった位置である*
そちらこちらでひめいが聞こえ、「助けてー」の声がいたるところで聞こえ始めた
自分の車10m右、中古車販売店の看板ポールへ必死にしがみつく初老の女性が今にも沈んでいく状態を必死に支える男性の光景がみえた。
後ろ向きのその女性は口まで沈み込み時折水中へ沈みブクブク音を立てて必死にもがいている状態だった。
車から10m、助けなくてはと思っている間もなく同じ屋根に上った男性がそのおばあちゃんへ向かって泳いでいた。
すぐに抑えて沈むのは免れたが、まだ流れがあり、上から1人のと水中の助けに入った男性とでは流れの中で支えることがこんな状態であったのはすぐに判った。
水中の男性の力では支えきれない状態なのはすぐに「手をかしてくれ~」の声でわかった。
正直、濡れたくはない・・・思う自分がいたが、その男性も顔半分沈みながらの救助風景を見過ごせなかった。
泳ぎ寄り、水中の2人で何とか近くのワゴン車の屋根へ押し上げることができた。
そしてすぐに2~3mの上流へしがみつく老婆も救助を求めていた。2人で泳ぎ寄りその女性も屋根へ上げ、またその奥の車のボンネットの上で流されようとする老婆を必死につかみながら励ます女の子からも救助を求められ、車づたいにゴミの水中をそちらへ向かい同じく敷地内のワゴン車の上へ2人とも上げた。自分も上がらねばと一度車の屋根へ上がりったが、奥の浮いた乗用車の屋根へ立ちながら難を逃れた女性が、沈みゆく自分の車から、隣のワゴン車へ飛び移ろうとスポーツカーの後部ウイングへ降り積もっていた雪へ足をかけた瞬間滑り水中へ落ちてしまった。
・・・・はい上がれる高さではなかった。
乗用車の後部とワゴン車の屋根とでなんとか腰までつかった状態で踏ん張っているが、持ちそうもない・・・
車へ上がっていた自分がその女子へは一番近い状態だったのでまた水中へ泳ぎだし沈んだ乗用車へ足をかけることができたので、隣の車の屋根へ1人で押し上げ助けることができた。
すぐに私も同じ屋根へはいあがり、なんとか水中から脱出はできた。
廻りは悲惨な状態であった。
*3日後に撮影した現場の状況 黄色の看板下部より30cm下まで水位が上がった 車も浮いた状態であったのだとこれできずかされた・・・*
看板へよじ登った男性2人・・・、まだ水中へつかったままの女性がいたり・・・、看板の鉄骨伝いに事務所の屋根へ移動し避難できた女の子と男性3名、隣の家屋の屋根へ上った男性2人・・・・
自分を含め19人いた。4人目の女性を上げた時点で水位は182cmの身長の私が歩道で立てない状態だった。
トラックの運転席のシートが濡れた状態だったから、道路は2mを超えていたであろうと思われる。
その状態で救助を待つこととなった。
夕方になり気温が下がり、雪もちらついてきた時間もあった。
全身ずぶぬれの体は車の屋根の上では体験したことのない震えが襲った。
日頃運動不足で「こむらがえり」を頻繁に起こす筋力がない私の脚力には、過酷なものとなり、硬直して立てないのが延々続く症状であった。
もう水中へは入れないと思ったのがそんな脚の状態の時であった。
同じく救助に入った運転手もその後2名の女性を助け上げ、1人は看板の上、水につからない状態まで押し上げ、もう一人は入口の鉄骨製の扉上へしがみついていた女性を老婆の車へ同じく押し上げていた。
その救助隊運転手(勝手にそう呼ぶが・・)は私より15は若いだろうと思える方だった。
夜になり気温が19名の体力を少しずつ奪っていくのがわかった・・・、看板へよじ登った男性+女性(40歳ごろ)が、手と足でつかまり立ちしている状態でもう6時間を過ぎた状態だった。何度も落ちそうになったのが目に入った。
支えの男性も「もう限界かも・・・」の声に同じ看板へしがみついていた男性が真下の赤い車へ降ろすべく救助へ向かい、なんとか女性を屋根へ降ろすことができた。
静寂の中で大きな爆発音とオレンジ色の明かりが夜空一面を照らしだした。
石油コンビナート方向であったため、タンクの爆発だろうと判断がついた。
マンションの東の壁を照らし出し、通路側のライトを照らしている方達の人数まではっきり見える明るさに照らし出していた。
中学生の女の子は車の上でしきりに救助を叫んでいる。
マンションからの「がんばれー」の励ます声も続いていた。
最初の自衛隊救助ボートが来たのは9時あたりだったと思う。
一番疲労の激しい老婆を救助、2車線の道路幅向のマンションへ汎送し戻るという。
2人をのせ2度目の救助までには30分がかかった。2人30分・・・・絶望した・・・
自分の救助する順番を見ると救助順番は老婆、女性、歳のとっている男性順が妥当であろう・・・・。
自分の時間は朝方になってしまうことも予想・・・「朝まで持つだろうか・・・」本気で思った。
体全体の震えは止まることなく横になっても続きている状態、体力も一度その上へ立った時に「歩けないな・・・」と思えた。
救助の時に暗闇の中あやまって誰かが水中へ落ちた・・・老婆かと思いまた水中へ入ってボートを支えてあげた。
これで温存した体力は完全に使い果たしたのを下半身の動かない状態で判断でき、水位が下がった状態からは、同じ車へははい上がれないことが容易に判った・・・。
その時点で水位は胸であったので立つことはできた・・・
「よし、風邪の当たらない車中へ行こう」寒さから逃げだしたい衝動へ駆られ、初めに上った冷凍車の運転席へ向かった。必死だったのだろう・・・無理と思っていた自分の足だが、水中のほうが体重が半減されたのか、なんとか前へ進むことができた。
石油まみれのゴミの水面をかき分け足を引きずりながら水中を進み、なんとか最終の冷凍車の運転席へたどり着いたが、ドアーロックがかかっているためか、開かなかった。
ガラスが下まで下がっていたので、タイヤへ足をかけ、よじ登りはい上がる格好で中へ入ることができた。
・・・最悪だった・・・たった15m水中の距離を歩いてきただけでまた震えが止まらず硬直した下半身は激痛の状態であった。
少しでも低温から逃れたい一心だったのだろうはいていたジーパンを脱いで素足の状態で少しでも体温を上げようとの試みだった。
全身の震えが止まらない・・・・素足の感覚も無くなりつつあった。
どうにもこうにも全身の震えがひどくなり、ジーパンを脱いだ素足が全体の体温を奪っているのか・・・「まずい」と思い、脱いだジーパンを手で水気を絞ってまたはいた。
靴がなかった。助手席に合った長くつをはいた。
「もう動けない」と救助を待つしかないと決めた。
体温を上げなければと周りのものを手探りで体を覆うものを探した・・・枕を見つけそれを抱いて震えながらじっとしていた。
疲労からか震えた状態でも眠気が襲ってきたうつろうつろしながらずいぶん時間がたったと感じたのは、ガラス越しに見える中古車センター内の車の水位の高さが低くなっているのが確認できた。
じっとしていたせいか、少しはふるえが少なくなって足がちょっとだけ動くようになっていた。
たぶん水深は腰ぐらいだろうと判断できたのだが、マンションまで歩いて行ける自信はなかった。
またすぐに枕に顔をうずめじっとして過ごした。
左方向から懐中電灯の明かりが飛び込んできた。多賀城消防署のいわゆるレスキュー隊であった。救助隊3名、2名は腰まで水につかり10名乗りのボートをひっぱりながら、懐中電灯で照らし掛け声をかけながらの捜索、もう一人はウェットスーツ姿で車のタイヤへうつぶせに載り水面をミズスマシとはいえないまでも軽快にスイスイ移動しながら捜索し、水中を腰までつかって歩くスピードとの違いの大きさに感心したのを覚えている。
車から抱えられボートに乗せられ、19名の安否をその救助隊員へ確認したところ、この30分前に救助したとのこと、残念ながら一番最初に押し上げた老婆が低体温症で亡くなった状態で運んだことを聞かされた。
その後30分ほど近郊の遭難者を拾い上げ、11名の遭難者を救助し45号線砂押川に架かる橋のたもとまで引っ張られ、ボートを降りた場所から救命テントまで隊員へおんぶされた状態で運ばれたときは確認の問いに答えられない状態の自分だったのを覚えている。
もうろうとした意識の中救急車、 病院で服を脱がされ、緊急患者としてラベルを付けられた私へは、看護師の迅速な処置がなされるのをうっすら覚えている。
上半身の衣類はハサミで切り裂かれ、薄い保温材に包み、左手から刺された注射針から自分の血液を抜き、循環器内を通過するときに温めた状態の血液を左手の注射針から戻す方法とやらで救命されたのを知ったのは、車いすに座ってストーブ前で暖まっているときに看護師に教えられたのでした。
坂病院へ搬送されたのが午前3時37分の丸い時計を覚えている、約12時間弱救助を待ったことになる・・・。
30分ほどで震えが止まったが下半身がおもい通りには動かない状態で、ストーブの前で「手でもみほぐしていてください」と看護師に車いすへ乗せられ石油ストーブ前で朝を待った・・・。
とにかく自宅が気になった・・・午前6時過ぎにストーブの前で自分で太ももや足首をもみほぐし、やっと立てる状態になったので、濡れたジーパンをはき、病院から借りたトレーナー1枚に自分の切られたジャンバーをガムテープで張り合わせてもらい6時10分、約15km離れた自宅へ向かって歩いて帰ったのである。
2時間ほどかかっただろうか・・・、自分の団地を一望できる高台へ着いたとき、その光景に絶句した。
自分が災難した場所の水の高さで、わが自宅が津波にのまれなかったのだろうか・・・、想像がつかなかったからである。
こんな私でも今回ほど家族が気がかりだったことはない・・・携帯電話を車へ置いてきた自分には連絡の付けようがなく、ましてやあの状況下では確認のしようがなかった。
病院のストーブ前の車いすにいても放心状態であり、朝方無性に帰りたい衝動になっての徒歩での帰宅決断だったのだろう。
引きずるような足取りと白いガムテープを継ぎはぎした後ろ姿に、追い抜いた車の運転手は必ず振り向きながら私を見ていった・・・。
後ろ姿のジャンバーの白いガムテープが異様に目立ったのだろう。
2時間の間、誰一人声をかける人はなかったのがこれが現実だな・・・とも思えた。
壮絶な光景を眺めた後、残り1kmの道のりを歩き、玄関の前でしばし立ちすくんで泣いた。
心底、「助かった・・・」と思った瞬間だった。
*一望し、涙した光景*
話のオチに、玄関を開けた妻の声は、「お父さん??、どこいってたの~」のの一言だった
自分的には抱き合いながらの劇的な帰宅になるはず・・・だったのだが・・・。ま~そんなもんだろ~~。
3月12日(土曜日)
自宅に着いた私は、事の一部始終家族へ涙をこぼしながら伝えた。
その後猛烈な睡魔に襲われ、眠った。
眠りから目覚めたあと、無性に車が気になり、現場へ行きたくてしょうがなかったが余震が続いていたり、渋滞の心配もあったし何より、体がいたるところ痛かった。
もう今日は家にいようと決めた。
車に残した様々な機材や道具、それに携帯電話、どの程度のダメージで車があるのかも気になっていた。
確認できたのは3日目13日の朝一で向かった時だった。
自分が救助されて通った銀鱗の前の道路を津波のすごさを目の前にしながらその場所へと向かい、すぐに見つかった。
よじ登った冷凍車より10mほど下流の中央分離帯寄りに止まっていた。
すぐ後ろへ自分と同じような車が2台重なり、前にはあのよじ登った冷凍車があった。
*よじ登った冷凍車より30m後方道路の中央で止まっていた流れの中いろんな物に引き裂かれた跡が生々しかった。 *
そしてあの救助隊運転手さんとも偶然の再会、途中見えなくなった彼のことも気になっていたので、再開を喜び合い、その時初めて名前を聞くことができた。
○○運輸の大場さんという方だった。
11時間過ごした車の屋根の場所も確認し、夜中の情景を思い出しながら茫然と眺めてきた。
車は自分が明けた運転席のドアーが角材を挟み込んでしまらない状態で、後部右のガラスは割れ、バンパーは左右引きちぎろうとしたかのような状態で剥がされ、内部はゴミと泥と油が一面散乱していた。
残した機材やウインチ、バッテリーを回収と思って取り出したが、海水の威力は恐ろしくバッテリーの端子はものの見事に緑晶を吹き、観た目で「駄目だな・・」と判断できる状態。
ウインチ・工具箱・SPADA胴体・ブースターケーブル・ガスバーナー・シェラカップ・
を回収、最後に携帯電話をさがし素手で泥の沈殿物を床やシートの上を探り探した。
もう無理かと思った最後に助手席の一番隅っこの泥の塊へ手を入れたところで発見できた。
もうこれで見切りをつけ、他の備品やゴミと化したものをあきらめて置き去りにした。
*車の中はこんな有様だった・・・天井にはSPADA胴体が・・・*
キャッスルホテルを過ぎて、45号線に出るところで「消防隊員の津波警報」の注意が促され、多賀城駅前につながる歩道橋に荷物と一緒に上った。
100人は上がっただろうか・・・、向こうの3階建屋上のビルにも30人は上った・・・
昨日の今日である・・・あの経験は繰り返したくはないのですぐさま消防隊員の指示に従った・・・・・1時間ほど待ったが何も起こらなかった。
車まで残り800mほど、時間にしてかかっても約10分だろう・・・意を決して家族3人で車まで歩きだした。
消防隊員は注意の警報は出すが、「安全です」の指示は出すはずがないと思っての移動決意だった。
難なく車まで到着。
その後、妻の実家へ向かって移動した。
30分ほどの実家は、耐震固定つっぱり棒の恩恵か、倒れた家具は一切なかった、が、食器は散乱し、プラズマテレビの液晶が倒れた際にテーブルの角へ強打、もう使えない状態だったのが確認できたのは、8日後の電気が復活したあとで確認できた。
った。
1時間ほどで片づけを終え、帰宅に道のりを走った。
車で走ってみて事の大きさを実感した、いたるところで瓦礫の山、商店街の惨劇を見、3日目なのだろう、列をなして商品の買い出しに並ぶいくつのもお店の列があった。
あるところではロールケーキ4切れを900円とぼったくりと思える値段だったり、コンビニの張り紙は「商品がありません」の入口がいっぱいだった。
まだ3日目だというのに、被害の大きさがこんなところからも想像できた。
また中には、「よろしければどうぞ」とビニール袋へ自慢のお菓子やケーキなどの商品を詰め込み通行人へ渡している光景を通りすがり、カミさんが「いくらですか?」と尋ねると「お金はいりません、お持ちください」と車の人数を想定してそれ分のお菓子を入れて車まで持ちより渡してくれた。
人の優しさに目がしらが熱くなった・・・・。
今後の難民生活が何日続くかわからない状況下を実感した家族には、少しでも備蓄できる食材の確保と思っており、お金には代えられないのを覚悟していたわけで・・・・この出来事は、これぞ人の温かさ・・・・覗き込んだかみさんの目が赤くなっていたのを覚えている・・・一生忘れられない家族共有の出来事だった。
3月15日
毎日の日課が午前飲み水配給の列に並ぶことをかみさんと娘の担当となり、トイレの水や回収してきた機材の洗浄用の水確保を私が担当した。
2日目の水配給は3時間並んだ。
給水時間を知らせる町内放送時間帯では、回を増すごとにどの時間帯に行けば短時間で済むかなど、策を練った。
洗浄用の水は、ラッキーなことに帰宅から100mも離れていないゴルフ打ちっぱなし練習場の「貯水槽の水」を利用させてもらった。
斜面に設置したゴルフ打ちっぱなし状の側溝に流れる湧水をためる貯水槽で、あふれる水位には側溝へ流れ込み、その水は道路迎えの貯水池に流れ込む仕組みになっており、10世帯ぐらいのトイレや洗浄用の水としては十分賄える量の貯水槽で常に流れ込んでいる水であった。
普通ならお願いしていただかなければならないのであろうが、こんな難民生活を強いられている状況下では、家主の方からも了解いただけるであろうと・・・拝みながら頂いている。
3月16日
そんな生活がもう5日目に入った。
水配給の場所への通路となっている我が家まえの道路へは今までに疎遠だった近所の方々が毎日通ることとなった。
災害はこんな縁を結び付ける役目も果たしているのであろう。
洗浄水の場所や安否の確認や様々な情報交換がなされることとなったのである。
釣り仲間の友人や、離れたかみさんのお友達、人との交流が毎日広がっていった。
多賀城市ではもう水も通ったと聞き、残りはガスだけ、今日午後に津波で自宅の一階部分を泥だらけにされた難民の友人が受難した多賀城へ行ったら、水道水で車を洗っていたのを見て無茶苦茶腹が立った・・・なんて情報も入ってきた。
復旧は早いようだが、自分の団地はそうはいかないと思えた。
あの悲惨な光景の一団地のライフライン復活は、被害が大きい地区を含むために安全の確認には時間を要することとなるだろうし、かなりの復旧日数を要するだろうと思えた。
生きているだけでも儲けもん・・・。もっと悲惨な方々がいっぱいいるんだから・・・・
そんな気分で、ケセラセラ(だっけ?)っすよ。
3月16日()
昨日電気がついてから、情報源がラジオから映像に変わった。
地震の瞬間を録画した映像や、津波の押し寄せる映像を女川港・石巻・志津川・仙台・相馬などリアルな映像を流すテレビに受難後初めて見てとれた・・・
東北放送が映しだした映像は、自分の場所から300mも離れてないソニー工場当たりの映像だった・・・
流れるすべてロケーションを知り尽くしているだけに、やけにリアルな映像であり、自分の場所が映った時には6日目の今でもあの老婆を思いだし涙が出てくる・・・・
2日前からの福島原発の問題も自宅が90km圏内で、地理的にも南風が吹けばひとたまりもないのは簡単に想定がついた。
家族3人でもしもの時の対処を相談して決めた。
原発の今後の推移如何では、私の実家の山形まで避難をすることに決めた。
大した違いはないとは思うが、ここから80km離れるだけでも・・・・
3月18日
相変わらずのライフライン状態である
今日は工房の片づけを10年ぶりに本気でやった。
窓ふきから、ホコリだらけの棚の掃除やら、材料のグラスクロスの荷物が到着せず、仕事ができない状況からの思いつきである。
1日で半分も終わらない掃除内容である。
水汲み・排水水汲みは日課となっている・・・。
3月19日
もう8日も経った。
七ヶ浜の田んぼはまだ水が引かない・・・。
北側の田んぼはやっと畔道が見えだしたが、田んぼの真ん中に民家の残骸や車、瓦礫のやままさにゴミ捨て場だ。
道路にあった瓦礫を片づけたらしく、車の通行が街内では可能になった。
が、団地へ入る一本道は姿を見せたものの、まだ遺体捜索が続いているのか開通にはなっていない。なぜなら田んぼの水が引かず、水中へ沈む家屋や車内それに行方不明者が確認できない状態であった。
昨日はガソリンを購入のため3時間半並んだ。300名の制限に何とかは入れ、1人10リットルの割り当てをポリタンク2缶計20L、かみさんと並んで買うことができた。
そして今日8日ぶりにかみさんの軽自動車で、遠く山里近くの銭湯へ家族3人でお風呂へ行くことをきめ朝早く出発、65km離れた「河童の湯」へは8時過ぎに現地へ到着した。
列に並んでいたのが10名ほどいた。
昨日かみさんがテレビで放送していた情報から、遠路のスーパー銭湯など数か所から選択したのがこの場所だった。
4~5年前には今の時期なら渓流釣りの解禁後であり、条件を見つけて真っ先に通った釣り場が懐かしかった。
3日前に降ったという道路の除雪された道は、一面銀世界のたんぼみちがまぶしく、9時にオープンし17時まで、整理券を配り浴室の混雑を避ける方法をとっていた。
早く出かけたおかげで一番のグループに入れ、男女40名ほど1時間という制限時間が記入された整理券をもらって入るシステムだった。
日本人とは何と素晴らしい人種などと、海外メディアが絶賛したらしいが、こんな場所でも誰一人文句も言わず、私が湯からあがってきた時点では、100名ほどの順番ができているだろうと思える人数だったが、整然とロビーや待合室で待っている様が「なるほど・・・」と思える光景だった。
受け付けのお姉さんに聞いてみた「昨日は何人来られたんですか」の問いに300人ほどです、の応答だった。
意外に少ないものだな~と思えた。当然ガソリンの入手不足で来られない人が多い・・・と聞いた。
だが今日は土曜日、昨日のテレビの放映で紹介されたこともあるだろうし、今日明日は多いだろうと思えた。
時間制限が2グループから1時間から40分へ短縮されたところを見ると、やはり今日はハイペースの来場しい・・・家族3人、8日ぶりのお風呂に満足し帰宅した。
帰り道、どこのガソリンスタンドを見ても、ものすごい長蛇の列。
かといって、スタンドは開いてないお店もあり、スタンドのリザーブタンクのガソリンで何台入れることができるのかわからないが、1人(または1台)10L~20Lまでとどこのお店も制限しての販売としていた。
ニュースではやっとガソリンスタンドへの輸送が始まったニュースが放映された。
すぐ隣の塩釜市にその石油コンビナートからタンクローリー車が次々と出ていくニュースであった。
着実に復興は進んでいる。
各避難所への物資もどんどん入ってきているようで、銭湯へ行く道すがら何台も秋田・山形・新潟・長野・さまざまな他県からの災害救援物資のトラックとすれ違った。
もう8日目になるとサイクルが出来上がっている。
電気は4日目に来たが、夜は居間一部屋へそれぞれの寝る布団を敷き、昔ながらの石油ストーブを1個だけで居間・台所・食堂のつながった部屋を夕方から温め、寝る前に火を消して就寝。
電気が来てからはそのあとPCで日誌をつける習慣となった。
そういえば、
仙台出身のお笑いコンビ「サンドイッチマン」が地震の時にちょうど宮城のあの「気仙沼」の仕事を終えて帰宅途中の受難だったらしいことをラジオで言っていた。
その日のテレビで、「マスコミは津波の映像をどの局もながすが、そんなことよりせめて地元のテレビメディアは避難所の安否確認を少しでも多くの人へ観てもらうことのほうがメディアとしての在り方ではないのか・・・」の提案に感銘を受けた。
それまで、関東の局は相変わらず東北各地の津波の様子を放映していたが、地元MテレビやT放送などは取材を避難所へ向け、字幕放送や生のテレビ映像で、家族・友人の安否確認の映像が常に流れる放映にかわっていった。
確かに、災害に合っていない人へは津波の映像は目をくぎつけにするが、実際に災難に遭った人たちへは2度と見たくない映像と思う人がほとんどと思えるのは私だけだろうか・・・・
その後、放映内容がかわっていくこととなったのは、サンドイッチマンのこの一言が効いたのだろうか・・・・。
もう8日も経ったように思えない・・・
病院から歩いて帰ったあの道のりが昨日のようだ・・・
昨日、災難前はほったらかしの前後タイヤがペチャンコになった自転車に、空気を入れたら「ご主人様、是非乗ってください」と言わんばかりに快調に走る愛車に気を良くし、多賀城まで午後から出てみた。
自分の受難した場所へもう一度行ってみた。
緊急通路を確保するべく行われたのであろう産業道路は流された車の排除を無造作に歩道や中央分離帯へ押し上げ、通行幅を確保し通常の通行が可能な道路となっていた。
災害後、初めて産業道路を通ったが、流された車が道路隅へ片付けられた様子は悲惨なものだった。
この中のいくつかの車の中で亡くなった方もいたであろう・・・・テレビの映像とは違った思いが実際に体感した時間だった。
自分の車も2日前はまだ道路へ有ったままだったが、同じように歩道へ押しやられた状態であった。
割れてなかったサイドガラスも割れ、たぶん押しやる際に割れたのだろうと判断できる状態だった。
車内はもう何もなく、ガソリンの入手難の時期でもあり、自分の車の燃料コック蓋も開けられた状態であり、盗まれたのはすぐに判る状態だった。
中古車購入してから約半年、一緒に行動してきた愛車であったが、ここまで壊れると見切りが付いた感じだった。
まだ陽も高かったので、脚を伸ばしてファースト模型まで走った。
前日に同じ七ヶ浜の友人A氏が工房へ訪ねてきてくれて安否が確認でき彼からの情報に「ファースト模型はあんまり被害無かったようだよ・・・」と聞いていたからである。
昨年後半に脳卒中に襲われ危うく最悪を逃れ手術の後、半年のリハビリで復帰したばかりのはずだった。
到着したが、45号線沿いは被害が大きく、電気の復旧がまだだったせいか真っ暗だった。
…が入口のシャッターが開いていたため、裏口へまわりのぞいてきたら雑巾で商品を拭きながら片づけをしていた。
両方の家族の安否や被害を伝え、同業としての不安を抱えながら今後の展望を話し、元気づけ合いながらあとにした。
日中もそうだったが、帰りの道路は蓄積したヘドロが乾燥して舞い上がりマスクをしていったのが正解だった・・それにいたるところドブくさくいたるところが下水特有のにおいを放っていた。(これは寒い時期で不幸中の何とやらであろうと思えた・・・)
10kmほどの帰宅距離は、8日は経ったと言え、あの地獄から帰った体には少々堪える距離であったが8カ月ぶりであったE店長も不安の中にも元気そうな顔には安心した。
被災後1週間も経つと報道されるメディアはどこも「頑張ろう・・」的な報道が多い。
確かに安否も確認できない方々にとってはどう映っているのかが心配でもある。
ガソリンが入手できないため遠方への移動ができないのがほとんであろうに・・・、
実家や自宅へも帰れない避難者、自宅がなくなった人も自分の近くにもいっぱいいる・・・。
そういった人たちへ・・・の思いが今の言動となっている・・・。
福島原発の問題もいろいろ索を施している・・・・鎮静へ向かってほしいのは我が身を考えても南風が吹けば・・・の不安は3日前と変わっていない・・・
すべての人が最大限の努力をしている・・
自分も意味を見つけながら動いている・・・・・
近隣の共や遠くても心の通じる友のありがたさが通信のたびにこみ上げる日々・・・・
今日は、もう寝る…
3月20日(災難9日目)
先日連絡が取れた県外の友から救援物資がはるばる秋田から配達していただいた。
被災地の宮城ではどこもスタンドでの入手できないガソリンを隣県ならばとお願いしたのだったが、その友の仲間からの心からの救援物資をまとめて運んでいただいたのであった。
お米を始め、ガソリン・食材保存食・カセットガスコンロ・着替えまでライフラインの復旧までにつなげる生活物資であった。
こういった経験は「人の温かさ」を再認識させられる。
昨年に入会させていただいたクラブからの援助だという友は、もう一人の友人とともに秋田県横手市から訪ねてきてくれたのであった。
自宅から徒歩3分の津波の生々しい現場を見ていただき、私個人の受難の話や周りの近況話をし、4時過ぎまで心をいやしてくれたお客様であり友人であった。
9日経った海辺の自宅を持つ近くの友の安否もいまだにわかっていない・・・。
はたして無事なのだろうか。
インターネットや携帯電話でも情報の入手が簡単な世の中だが、その端末機器が稼働しない現状ではそんな環境でも全く意味がないものである。
ガソリンが有れば車ででも確認に行けるのだが、その燃料も入手できない状態なのである。
この2~3日、被災地への救援物資が急ピッチで入ってきているらしい。
近くの避難所の状況も自宅が無事だった私には計り知れないが、自宅で暮らす私たちでさえ食料やせいかる物資の入手に関しては同じことである。
でも寝るところが自宅という安らぎの場所は無事だったことは、テレビからの「避難所のメッセージ」を見るたびにその方々よりはとても贅沢なことだとしみじみ実感できる。
せめて節約生活で小さな援助ぐらいは当然のことと思いながら実行している。
3月24日
この数日、工房の片付けや物資入手の列に並んだり、仕事もろくにできない状態で過ごしている。
かみさんが2日目から仕事へ復帰し毎朝出勤している。
娘も今月29日からの社会人初出社となる。
もう2週間近く経つというのに、ライフラインが電気だけである。
想定したとおりだが、水・ガスの順となるであろうが復帰予定がいまだにわからない。
電話回線も仙台・利府など海岸沿いを除けば復帰していると知った。
水没した携帯電話の復帰を仙台まで出かけ修理を依頼代替え品を受け取り、そのショップ内で安否を気遣ってくれた友人からの電話が次々と鳴り、夕方までその連絡に費やした。
どれだけの友人へ心配をかけたのだろう・・・。
自分の安否確認の第一報が入ったのは、グーグル捜索で横浜の友人が出した問いに、秋田のクラブ員のSさんが答えてくれたことからかみさんの携帯へ一報が入ったのが最初であった。
今日一日で20人ほどの友人と自分の携帯で連絡が取れたのであった。
ご無事で良かったです。
RCエアワールドのブログへのコメントありがとうございます。
そちらにもお返事させていただきましたが
弊誌でご支援できることがあればなんなりとご連絡下さい。
読者の方、お客様へのお知らせや、告知レポートなど
ご協力できることがあればと思います。
まだまだ復旧へ向けて大変な日々なのではと思いますが
こちらからお送りした方がいいものなどあればお知らせ下さい。
村上様
連絡ありがとうございます。
被災後、1カ月を過ぎ、被災地にいる人間として避難所やボランティアセンターなどのぞいても
物資、人員もかなりの方々に協力いただいているようです。
廻りはまだまだ行方不明者捜索に自衛隊の方々により、ガレキや沼、海岸沿いなど毎日捜索されています。
もう1カ月も過ぎている状況ですし、遺体安置所の収容人員もオーバーし、2~3日前より
仙台新港にある夢メッセ駐車場へ新たに遺体安置所が設営されております。
個人的には、自宅も家族も無事ですから、わが町の浜通りの方々の被災復旧活動が進んではいるものの、
あまりにもの被害の大きさゆえそれはもう終わりのない復興作業に思えます。
幸い私の仕事場は無事でしたので、時間を見つけては自分が出来るお手伝いをと、浜通りの友人宅や役場へ
足を運んでおります。
今後も被災者にとって何が必要か・・・
お願いすることがあれあば、連絡差し上げますので、よろしくお願いいたします。
主様、こんばんは。
何よりです。
とにかく無事良かったです。
また会える日を楽しみにしてます。
ハマさん、こんばんは。
ハマさんのところも自宅家族ともぶじで何よりです。
が、原発問題や風評被害はこちで想像する以上に実感されていることとおもいます。
北風や西風が吹く度に、いわき方面が気がかりでした。
ここのところ福島浜通りの余震がひどいですね。
ブログも拝見しましたが、震度6弱は無事でよかったです。
こちらの毎日余震の警告音に身構える日々を過ごしてます。
2日前より、生活水の水汲みの日々がまた再開してしまいました。
水汲みキャリー、やっぱりしまわなくて良かった(笑)・・・のかな?
大変御無沙汰(汗)そして御無事で何よりでした。大変な経験をされましたね。K村さん、O高さん、S野さんともども案じておりました。本日ムッチーさんのブログからここを発見しました。仙台在住の小生の娘二家族も無事とのこと、近々様子を見に行く予定です。お邪魔でなければ寄らせて下さい。
あの、秋山さんですか。
いや~~~お久しぶりです。
つもる話がい~~~~~ぱいありますね。
工房へお邪魔どころか、一献交えながら話したいです。
SALにはまっておられるとお聞きしてましたが、今は東京在住ですか。
仙台の娘さん2家族とあれば、もうおじいちゃんになってるわけですね、お孫さんは可愛いでしょうね。
30年はお会いしてないですよね。
再開、ホンと楽しみにしてます。
余談ですが、及川さんも九死に一生でした。
及川さんも被災されたのですか。おととしの夏に泉ケ岳の飛行場で30年ぶりくらいにお会いしましたが・・・無事であればまた元気に、遊べますね。よろしくお伝えください。
メールにてお送りした写真のF5J機、専用みたいです。名称はSuperStarlightでK村さんの選定です。翼長3.5mで3セルリポ2200m搭載で2.3Kg弱です。
動画見てください。http://www.youtube.com/watch?v=me5eitFvqwI
かなり浮きの良い機体ですがなんせパイロットがヘタレなのでB機より早く下りてきてしまいます(汗)とにかく大型機に慣れるべく練習です。
5月の連休は上里のアカシア杯にジョーワーツが来るので見学に行きます。
連休明けくらいに手持ちの機体全部もって仙台に行く予定ですのでその際によらせてもらいます。ホント再開楽しみです(笑)
ブレードランナー、ファーストレディでお世話になった関根です。2006年に愛犬と工房を訪れ、ペンションみらいに泊まり、多賀城の銀鱗を訪れてから、すっかり仙台地方が好きになって何度か食い道楽と温泉に訪れています。今回、秋山さんに教わり、ご無事と伺い安心しました。実は震災後にホームページを見に行ったら更新されてなかったので不安になってました。秋山さんとは千葉でSALを楽しんでいます。帰りにアキバのチャンプに寄れば、また会う、という感じです。
大変な経験をなされた記事でドライアイの私でも涙腺がゆるみます。どうぞ倒れないようお気を付け下さい。またお会いしましょう。
関根様
大変ご無沙汰しております。
もう5年も経つんですね。
津波で親友1人、亡くしましたのが一番つらいですね。
タラレバを言ってしまいえばまだまだ泣いてしまう今日この頃ですが、前を見てがんばってます。
啓蒙活動も今まで以上にと企んでいます。
来仙の時にはご連絡くださいませ。
秋山さんとも、会うのが楽しみです。
いわきの小池です。HPを見つけて安堵しました。
ご無事だったのですねー!ニュースを見ても悪い事ばかり考えてしまい
とても不安でした。鳴瀬のHPもやっと更新された様で平常が少し戻ったのでしょうか。この先凄く長い道のりでしょうが無理をせずにお過ごし下さい。とにかく無事で良かったです。
大変ご無沙汰しております。
小池さんのほうは被害なかったのですか?
いわきのほうはお住まい移されたのですか?
それと、〇木さんは大丈夫でしたか、奥様の実家が仙台の岩沼だったはず・・・津波の被害などなかったのでしょうか、気がかりでした。
携帯電話番号、車と一緒に無くしてしまいましたので、連絡先の番号もわからずじまいです。
ご存知でしたら、お知らせくださいませ。
秋田 なまはげ 齋藤です・県南のSさんからのまた聞きで ご無事は 信じていましたが、やばかったですね。
私は 19日から 高田の仮設設営に来てます。
水沢から1.5時間です。秋田からは通えないので
江刺なんとかで泊まっています。 米崎中 で89戸設営します。
結構 きてますが 寒風山で いつか。
斎藤 様、高田での応援活動、ご苦労様です。
1日も早くと待たれる仮設住宅ですから、お体に気をつけて無理をせずに頑張ってくださいませ。
今年も寒風山へ機会を見つけ出かけることにします。
その折はよろしくお願いいたします。
結城さん。こんばんは。
斎藤さんからHPが変わったよ!と聞いていました。
先日はお電話で元気な声を聞けて安心していましたが、HPの写真を拝見してさらに安心しております。
徐々に戻って来ているとは思いますが、十分お体には気をつけてくださいね。
今年の寒風山は中止ですが、8月?9月?に寒風山で何かをしようか?っと考えてますので、またお逢い出来る事を楽しみにしています。
井澤 様
ミーティング、中止ですね。 残念です・。
落ち着いた時期にでも旅行がてら寒風山へ遊びにでも出かけようと思っております。
斎藤さんも仮設設営に尽力くださっているとか・・・感謝です。
当地七ヶ浜も毎日通る田んぼの光景がいまだにがれきの山状態。
2か月たっても変わりなく散乱したままになっています。
そんな中でも、自衛隊やボランティアの方々の活動は感謝の一言で頭の下がる思いです。
寒風山MT、秋口の良いお天気時期にまた企画してください。
楽しみにしております。